利己vs利他 利己に振舞うのは端ないことなの?

 最近の若者は社会課題解決への意識が高い!とか、アメリカの教育NPO団体、Teach For Americaがエリートのキャリア形成のスタート台として就職先ランキングの上位に入るとか、世の中の言説は利他行動の称賛シャワーで沸き立っている。僕もそのことに対して、なんら違和感はないし、素晴らしいことだと。自分も棺桶に足突っ込む前にこれまでお世話になった人達への感謝を利他のアクションに変換して誰かの役に立ったと心から思ってあの世に旅立ちたいと思う。
 
 ただ、だから利己より利他行動を考えましょう!みたいな押し付けの物言いにとても違和感を感じるだよなあ〜。先日、プロコーチの方から、「助けてほしいのか?vs助けてあげたいのか?」の盲点を突く質問を投げかけられた時、一瞬自分の中で解答を口にするとき逡巡があった。僕の偽りない結論は「助けてほしい!」なんだけど、なぜ解答に逡巡したのかというと、これまでの経験から、僕は人に助けて!と言われた時、中途半端にコミットし、途中で仕事が忙しくなって、支援しきれなかったことに罪悪感を覚え、己のストレスになったことがあったのを思い出していたから。今の僕は、自分がやりたい!と思ったことを助けてもらう方が自然だし、ストレスフリーで邁進できるんだよね〜。ただ、この感覚、利己vs利他で利己をチョイスすることが、日本の文化からすると端ない、仮に感じても隠すという見方に自分も囚われるな〜と数秒頭の中で感じてたんです。
 
 人生折り返し地点に立つ40歳のおっさん(自分のこと)でも、利己を無くして、利他のアクションなんてとても取れないのに、もっと若い人が利他からアクションを開始するって、本当にできることなのかな〜と思って(ちなみに本当にできちゃう人はいると思います。それが強みの人は、年齢に関係なく) 
 
 で、 僕の持論は、世の風潮は利己<利他についての違和感。最終的には利他の方が幸せになれることは間違いないし僕も同感ですが、最初から利他全面で考えろとなると、自分置き去りのやらねば恥ずかしいモードの波に飲まれることを良しとしない。自己を磨き、やりたい旗を立て、折れずに残った利己の旗に他人が共感し、集まれば、自然と利他の旗になる。わたしの旗がみんなの旗になるということ!みんなの旗のやりたいことをやりとげた時、自信と他者への感謝が増幅される。これを繰り返していき、ある臨界点を突破した時、自然と利己ではなく利他で考える習慣が身につくのではないかと考えてます。
 
 だから、いきなり利他から入るのではなく、利己で何度も試行錯誤し、結果、自然と利他の回数が増えていくみたいな方が多くの人間にとって自然なのではないかと思った次第です。皆さんはどうですか?
 

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ルールにカウンターパンチを浴びせる❶[主張までの長い前提編]

 人生40年生きてると、ルール=縛らられる、意味不明、面倒というネガティブな反応が身体に染み付いちゃう。古くは、家庭の門限から始まり、校則、社会のルール、会社のルール。空気の様にルールは日常にあり、ともに生活せざるを得ない。
 
 人は1人では生きられない。だから大小様々なコミュニティ(学校、地域、会社なんでも)に属し、コミュニティーがある以上、コミュニティーにルールは既にある。僕もそーだけど、コミュニティーの立ち上げに寄与する経験は通常ないので、あるコミュニティーに迎え入れられた瞬間、どこの誰が決めたか知らないルールをありがたく押し付けられる訳です。
 
 な訳で、ルールに対する苦い経験が積み重なり、蓄積し、沈殿し、ルールに対しネガティブ反応が身体化するのだろう。
 
 更に言うと、日本は特にルールは与えられ、押し付けられ感が強いと思う。一方、欧米の人達はルールは自分達で作り、変えるものという意識があるのではないかなぁ。
 
 だって、欧米の人達は、市民革命・独立革命やって、市民が血を流し、苦しみを乗り越え、理想社会に向けたルールづくり(憲法)したから。
 
 だから自分たちで勝ち取り、自分たちで定めたルールを皆で守ろうぜ!は自然の成り行き。もちろん各人が果たす責任もその裏側にべっとり張り付いてるけど。そんな歴史を欧米の子孫は、共有し、継承してるからさ、国レベルではなく、地域や小さなコミュニティーでも自分たちでルールを決めて、ルールが機能しなくなると、対話を重ね、今にフィットするよう修正を重ねるお作法が染み付いているのだと思う。
 
 一方、日本はさ、市民が自分たちで勝ち取りルールを定めた物語が残念ながらない(ごめんさない、勝手な憶測。あれば教えてくださーい)。明治維新だってさ、明治の元勲達も市民じゃなくて、末端かも知れないけど、維新前の支配階級である武士にあることには違いなくて、市民はぶっそうな世の中だよな〜とかいいながら、ある日を境に牛肉食べて文明開化を味わって、そんでもって、明治の元勲や官僚が定めたルールに沿って生活することになるんだから。でもこれはしょうがないさ。時間をかけて皆で一緒にこれからの日本を考える大対話集会をやってたら、欧米列強に侵食されてまうに違いないからさ。
 
 さらに第2次世界大戦後の憲法だって、基本はアメリカから与えられたものだからさ(ごく少数の日本人が策定関与はしているとしてもさ)。
 
 で、結論としては、生まれた時から、そしてコミュニティーに参画する都度、受け身でルールを頂き、コミュニティーの一員として、ルールを作り、責任を自覚して生き、対話を重ねルールを吟味・修正するような主体性を発揮し難い環境を僕たちは生きてきたと言えるのではないかな。だから、ルールで息苦しくなると、ルールを与える主体に対して、文句を垂れ流す。曰く、行政が悪い、経営陣が悪い、先生達が悪いって(僕も散々文句言ってきました…汗)
 
 そうそう、ルールに対するネガティブな見方にカウンターパンチを食らわす僕の考えを述べたかったのだけど、主張の背景でここまで冗長でつまらない文章を書き散らしてもーた。僕の考えは、別途、記事を分けて書きます(続く)。
 
 蛇足だけど、ジョン・F・ケネディ元米国大統領のMessage、本当に痺れますよね。

そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。

また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。

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トコロ変われば〜自由と不自由

世間はいざ知らず、これまで組織人として生きてきた僕の認識だと、
フリーランスの方が自由で、組織人の方が不自由と決めつけていた。
 
組織においてやりたいことができない不自由を感じ、自分のやりたいことをやるために会社を辞め、独立する流れを見てきたからだろう。
 
先日、フリーランスの知人と飲み語る機会があった。酒を飲んで気持ちが緩んだ所で、僕の決めつけ解釈(独立したら自由でいいでしょ?)が配慮も想像力もなく口から零れでると、
 
知人曰く、そら違う!独立したために不自由を感じることはたくさんあると。
 
例えば❶、自分が、お客様のためになると思って考え抜いて、考え抜いて、提案するもお客様は枝葉に拘り、本当にためになるのか?と悩みながらも生活のためには自分を殺して従うしかない不自由とか。
 
例えば❷、自分の専門性を切り売りして生活の糧を得ているが、自分がもっと領域を広げチャレンジしたくとも、実績がないからと仕事が発生せず、結果、自分の専門性の切り売りの繰り返しで成長実感が持てない不自由とか。

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彼の話を聞いて、なるほどな〜と唸ってしまった。案外、組織人の方が自由な側面もあるな〜と。
 
例えば❶、考え抜いて考え抜いて、提案して、窓口担当が言っていることが、それ本当にエンドユーザーのためになるのか?と迷ったその切所、考え抜いた熱量がある臨界点を超えている場合、押し返したらうざがられるかも、案件なくなるかもという恐れを軽々飛び越えて、目的ベースでそれは違いますと言い切れる自分がいる。それも借りに案件がなくなっても即生活に困ることがないから自分の考えをオブラートに包まず言い放てる自由があるかもしれないなと(もちろん顧客のためになると確信がもてるまで考え抜いた場合だけど)。
 
例えば❷、今のビジネスが安定的に回り、キャッシュが入り、給与を保証する組織からの恩恵があるから、社員は新しいことにチャレンジすることができる自由さがあるのかも知れないと(勿論、チャレンジするには、今の仕事を回しながらプラスオンでやること、気が遠くなるほど利害関係者の合意とハンコをもらう不自由さもあるけどさ)
 
フリーランスと組織人、どちらか一方が圧倒的に自由、不自由というのはあり得ない。どちらの道を選択しても、周囲に喜んでもらうため自分の想いを成し遂げる自由を得るためには、不自由・理不尽を乗り越える覚悟がいることに変わりはないと。

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毎日ドラマだと疲れませんか?〜進歩の方程式[安定∞変化⇨進歩]の考察〜

・先日、とある学生の悩みに僕は耳を傾けた。彼曰く、「味気ない、無臭で、灰色で、マンネリで埋めつくされた終わりなき日常から脱出したい!」と。
・で、僕は「毎日がドラマだと、疲れませんか?」と投げ返した。
・彼曰く、「確かにそうですね…、そうかも知れないですね…」彼の心に波紋を起こす一石を投じたらしい。
・この会話のキーワード、安定[日常]と変化[非日常]。
 
・個人にも、社会にも、世界にも当てはまる不変の真理の一つ。
・それは、安定と変化のバランスが求められること。
個人も、社会も、世界も安定と変化の往還運動の中で、進化・発展を遂げてきたのではないだろうか?
・ある瞬間、ある時代で個人を、社会を、世界を切ってみると、安定と変化のいずれかに偏っている断層が見えるはず。

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・太古に想いを馳せてみよう。狩猟時代、現代の僕らから見ると毎日がドラマだったはず。でも獲物を取れない日が何日も続くと死に直結する過酷さと裏腹な世界だったはず。安定と変化の重りを天秤に乗せると、狩猟時代とは、変化に大きく傾いていた時代だったのだろう。
 
・そして人類は、農耕・牧畜の技術を偶然発見し、農耕時代の幕を拓く。
・この時代は定住して1年のサイクルで植物や動物を育むルーティンを地道に積み重ねる。ルーティン作業の果実として、狩猟時代を凌駕する食物の安定供給を実現する。
・口説くなるけど、安定と変化の重りを天秤に乗せると、農耕・牧畜時代とは、安定に大きく傾いていた時代だったのだろう。
 
・食物の安定供給により、生きるために費やす時間から人類は解放され、よりよく生きるための時間を獲得したのだろう。
・そこから、芸術、哲学、組織、法律等の今日に脈々と連なる文化や社会を生み出すことができ、人類は発展の軌道ルートに乗るに至ったのだろう。
 
・そうだった、ここで僕は歴史を物語りたいのではなく、安定と変化のバランス・効能を物語りたかったんだ。
安定と変化、どちらが良い悪いではなく、安定があるから変化を生み出すことを可能ならしめ、変化があるから安定を求めるという往還運動で人類は発展してきたと思うんです。つまり、どちらも必要で、バランスが必要になるということ。
・ここで、話のレンズを冒頭の学生君の悩みにパンしてみて、個人にとっての安定と変化について述べますね。
 
・進歩にはチャレンジが必要です。安定から抜け出して、変化の大海原にダイブするように。
・パパの眼差し[安定]があるから、これまで手を出さなかった遊具にトライする[変化]する娘があるように。
・家庭のリラックス[安定]があるから、旅[変化]に出れるように。
・日本人としてのアイデンティー[安定]があるから、世界に羽ばたける[変化]ように。
・安定の母港を持たずに飛び出すのは単なる根無し草で、いつかバーンアウトしちゃう危険を孕むよね。
 
・一方で、変化が常態化すると、視野・視点・視座が狭くなる。
・高速で車を飛ばすと視野が狭くなるように。
・遅刻間際で人ごみをかき分けて進むと、周囲の人の表情が目に入らないように。
・日替わりで刺激的なことに身を浸し続けると、俺、何やってるんだろうと自問するように。

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・そう、個人の長い人生をある刹那でぶった切ると、安定と変化の分銅の天秤バランスはどちらかに偏っていますよね。
・まずは、今の自分はどちらに偏っているか自覚することが大事だと思うんだ(というか、多くの人は自覚してるでしょう)
・で、進歩する、個人なら1㍉成長するために、幸せになるためには、偏り過ぎている端からジャンプしてもう一方に移る必要がありそうです。
・なぜなら、安定と変化の終わらない往還運動の果てに個人の成長と幸せがあるはずだから(と、僕は思う。これが結論です)
 
・で、皆さんに投げかけです(僕も自問します!)
・今この瞬間のあなたは、走ってますか?身動きできなくなってますか?
・身動きできないなら、日記をつける、会社の行き方を変える、散歩に出る、何か変化を!出来ることから!
・走っているなら、立ち止まってリフレクションしてみましょう!何を感じますか?何が見えますか?次に繋がる何かが立ち現れる兆しが掴めましたか?

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「顧客訪問前の準備は大切」って、本当かよ?違和感有りな私。

 話の前提として、民間企業(行政体)の社員教育をデリバリーするのが僕のお仕事で、営業をしてます。
 先日の営業会議で顧客訪問前の準備の大切さについて議論が及びました。皆様曰く、
  • 訪問前にクライアントのHPや新聞等で情報収集してヒアリングするポイントを整理すべし!
  • 想定される課題の仮説を用意して、課題解決につながるパンフレットを忍ばせおくべし!
  • 特に若手営業に対しては、新規クライアントへのヒアリングシートを作成し必ずヒアリング項目を聞いてくるよう指導すべし!
 確かに間違ってないけど、なんだろうこの違和感。かくゆう私、最近、手ぶら・素のままでお客様訪問することが日常・常態化しており、多くの熱心な営業パーソンから、異分子のレッテルを貼られてもおかしくない営業なのです。はい。

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 そう、そう、違和感の話でした。そもそも何のために訪問前の準備を行うの?って、原点・目的に戻って考えるとね、お客様の問題状況に飛び込み、お客様の目線で質問を発し、問題解決の課題と優先順位を協働で見出すためと僕は考えてます(平たく言うと、お客様側に立って一緒に考えるため、だね)。
 
 だとするとね、営業会議でお偉いさん・ベテランさんが物申す“べき論”は、場合によっては準備の目的を達成できないどころか、邪魔になることが多々起きることに僕ら(営業パーソン)は自覚的であるべきではないでしょうか、ね。
 
 つまり、準備するということは、営業側がお客様になんとしてもこの商談でこれとこれは伝えねばならない、聞かねばならないという力身につながるんだよね。とすると、目的はなんだったけ。そう、お客様の側にたって一緒に考えることだったのに、少しもお客様の話を傾聴しない営業が出てくる。
※バカな話だけどさ、ヒアリングシート埋めてきたら◯ポイント、なんてやってる倒錯マネジメントもあり(噴飯モノだよね!)、完全に手段の目的化の典型になってたりする。
 
 だから僕はある時から、べき論の準備を辞めたんです(否定してませんし、ゆるやかな仮説は持って臨むこともあるけど、その弊害に自覚的でもあるのです)。手ぶら・素で訪問すると、先ず聴く。相手の側にたって更に聴くと、自然と質問が湧いてくる。で、質問を相手に訊く。その過程を楽しむ。で、お客様の問題状況と課題感を共有できた時、そう、その瞬間、営業として最高に痺れます!
そもそもさ、これ言わねば、これ聞かねばだと、お客様の表情に浮かぶ違和感とか、観察する余裕もないしね!
 
ということで結論、
 
 顧客訪問前の準備は確かに大事!でも、準備に勤しむあまり、肝心の目的であるお客様の立場で一緒に考えるためのスタンスを遥か彼方に押しやってないか?自覚的であるべきだと、僕は思う。
※偉そうに失礼しました!できてない部分も多々あれど、でも、そういう営業でありたいと常々心がけています!

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2つの“問う力” 〜全てはあなたのWILLから始まり、そして世界が動きだす〜

[お断り]今回のBlog記事の前半は、パーフェクトな私事であり、私のパーフェクトな独白です。恐らく私以外の世間様には1㎜も関心のない事柄であろうことを予めお断りしておきます(それでも読んでくれた方、ありがとうございます!)。
 
【長い長い前半戦】(読み飛ばし可能!)
 一昨日、恵比寿の蕎麦屋で同僚と語らいながら、“私の”WILL(成し遂げたい志事)をクリアーに発見してしまった。昨日、WILLに憑依された私は、導かれるように身体が動き、問いを発し、人と繋がった。とてもとても充実した短い1日物語を紡ぐことが出来た。
 
 僕のWILLは、周囲(同僚・他部門・先輩)に、2つの問いを投げかけずに居られない。
  1. 僕が感じる不満や問題は、あなたにとっても同じですか?違いますか?
  2. 僕のWILLは、貴方の不満・問題を解決することに繋がりますか?貴方のお役にたてますか?
 だったらこの人に相談してみたら?、人から人へ支援者の見えない糸が連鎖的に繋がれていく。まるで、神様に導かれるようにWILL実現の最良の支援者へ繋がって行く感覚。
 
 僕は、WILL実現の物語の扉を確実に開いた。あとは、物語の道中を進むのみ。桃太郎が吉備団子で支援者を得たように、僕は、僕のWILLで支援者を得る。そして、問いを周囲に発し、WILLのフィージビリティーの精度を上げていく。
 
 さて、馬が水を飲みたくなければ、どんなに水飲み場に引っ張っていっても無駄である。この教訓は、私の生業である教育ベンダーがデリバリーする教育研修にも合致する。本人に強い渇き(不満解消やWILL)がなければ、どんな素晴らしい教育コンテンツも豚に真珠、猫に小判だ。
 
 大企業に勤める多くの社員は、会社・組織からお題を与えられれば、生き生きとし、お題の問題解決スキルは驚くほど高い。こういう社員を社内で「うちのエース級の人材」と呼称するらしい。でも、それはあくまでも“他人の”お題だ。
 
 “私の”お題を発見しなければならない。“私の”お題でなければ、志事の途上で待ち受ける幾多の困難を乗り切ることは絶望的に低くなる。あるいは、中途半端なアウトプットで妥協してしまう。
 
 そう、かなり独断の危険を敢えて犯して言い放てば、多くの方(僕もその1人ですが)に一番欠けているのは、“私の”お題を発見する能力とその能力発揮の結果としての”私の”WILLなのだ。日本全国がWILLの供給不足状態にあるのかも知れない。
 
で、何の話や!と突っ込みを入れられそうですが、僕のWILLとは、
 
 “他人の”問題解決を快刀乱麻にさばく自己陶酔から醒めてもらい“私の”問題発見の美酒を味わうための意識転換と私の問題発見の考え方・スキルの武器をお渡しいただく場を提供すること。その場は、意識転換を目的とするため、もちろん自分がエースでいられるホームを離れたアウェイであること。自社だけでなく、社会・世間が抱える問題とも接続可能な場であること。
 
 そうした場をできるだけ多くの方に提供できたら嬉しいと思えるのです。
どういう形で実現するかは神のみぞ知るですが、自分の能力が及ぶ限りで突き進んでみたいと思います!
 
【後半戦】2つの問い力(伝えたいMessage)
僕の考察結論、問い力には、
第1の問い力•••“私の”WILLを発見する為の問い力
第2の問い力•••“私の”WILLを実現する為の問い力
の2つがあるということ。

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 で、第1の問い力は、教育領域。つまり、教えることが可能。例えばコーチングの質問スキル。これは、他者を深く理解するために使えるのと同時に、その質問を自分に向けて使うことで自己理解(自分の不満・何かをしたいという微かな動機等)を促します。
 次に、自分の不満、何かしたいという微かな動機を他人に発信しましょう!すると、もっと鮮明になってくる、自分の不満や動機が。で、何人かに発信していく過程で、臨界点に達すると、あれ、“私の”問題のはずが、ひょっとすると、もしかすると、“みんなの”問題ではないのかと脳内発火する。
 脳内発火したら、自分(所属する組織)のネットワークと資源で“みんなの”(かも知れない)問題を解決するWILLを模索する。周囲の力も借りてプロトタイプのWILLがある程度クリアーになればしめたもの!ここから、第2の問い力の領域へ突入する。[ちなみに僕は今この段階に居る]
 
 第2の問い力は、実践領域。つまり、教えることではなく、本人が“自分の”WILLに突き動かされて、自然と2つの問い[前半戦参照]を周囲に発する[これは、スキルではなく、WILLがクリアーになると誰でもできるもの]。
 第2の問い力の継続を通じて、“私の”WILLが“みんなの(多くの人の)”WILLへ昇華する。そして、協力者を得て、WILLの実現可能性を高めることになる。
 
 偉大なリーダーのリーダーシップ物語も上記のようなプロセスを辿っているのではないかと僕は思います。だとしたら、偉大というと憚られるけど、誰もが自分の周囲に範囲は小さいかもしらんけど、リーダーシップ物語を紡げることはできるはず!じゃないですか。

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 以上、ここまで辿りついて(おつきあい)くださった方、お疲れ様でした&ありがとうございました!

半人前からフレッシュマンに贈る言葉

 春の風物詩、新入社員の入社式。

僕の会社でも、4/1にトップによる新年度挨拶があり、新入社員へのMessageを伝えていた。巷では、新聞記事で大物leaderのフレッシュマンへのMessageが掲載されていましたよね。
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 ところで、僕は、学卒新人のOJTリーダーを職場で拝命した。
大物leaderが発するMessageの凄みと重みは到底無いが、人生&仕事人の折り返し地点にいる文字通り半人前の僕からこれから長い道のりを歩み始めるフレッシュマンに捧げるとすればどんなMessageが良いか考えたことを書き連ねてみたい。
 
 といいながら、いきなり結論、フレッシュマンに捧ぐMessageは、
『君の圧倒的な強みで周りを幸せにしろ!そうすれば、君の弱みは人間味に変わる!』
 
 自分の経験上、恐らく日本社会は、
  1. 平均を求める(村社会の起源もあるだろうか、村八分って言葉があるくらい)。
  2. 弱みを克服することに重点が置かれる。
 弱みは目につく故に指摘されやすい。本人は意識して弱みを克服する。こうして成長した大人は、意識する分、他人ができていないと我慢ならない(だって、俺も苦労して克服してきたんだからお前も克服せよ!という怨念)ものらしい。
 
 他人に弱みを指摘されると、関心外・苦手な事を周囲から見えなくするために弱みを克服する涙ぐましい努力を行う。
 
 ところがさ、同じ努力でも、弱みを平均にするための成果は、感覚的に1⇨1.1倍。強みを更に伸ばすための成果は、感覚的に1⇨2倍くらい。あくまで感覚的だけど、それぐらいのアウトプットが異なると思う。経験上。
 
 弱みの克服は、暗いんだよな。気持ちが。しかも努力してもたいした成果がでないから、いつまでも成果が見えず出来ないことに自信を失いやすい。そんなん、一度こっきりの人生で勿体ないお化けだよね。
 
 一方、強みは本人も自覚されない。だって、自然と出来るし、皆んなもそうでしょうと思ってるから。いえいえ、全然そんな事ないですから〜♬。
 
 しかるに周囲も強み発揮は賞賛の言葉を出し惜しみし、強み礼賛を上回る弱み指摘の大合唱を繰り広げ、ますます弱み克服行動に駆り立てる。
 
 でもさ、社会で誰かを幸せにする、社会・組織問題を解決するのに、平均的な 能力で行えるほど世の中、甘くない。だから、強みを解放して事にあたる必要がある。しかも、1人じゃ出来ないから、皆んなで強み持ち寄りし、強みの大集結を行ってさ。
*強み、強み、完全無血の大集結♬(小さいお子さんのいる方はニヤッとした方がいるかも笑) 
 
『君の圧倒的な強みで周りを幸せにしろ!そうすれば、君の弱みは人間味に変わる!』
 
 でもね、僕のMessageは条件付き。弱みが人間味に変わるのは、強みで周りを幸せにできると周囲が認めた場合のみさ。新人は、1人で周囲を幸せにする力量はまだ無い。だから価値を出すには周囲の協力がいる。だから周囲の指摘はありがたくお受けして、プチ克服行動をした方が良い(経験上)僕は恐らく生意気とクソミソに言われていたから。
 
 僕が一番伝えたい大事な事はさ、弱み克服に夢中になるあまり、自分の強みの自覚と発揮を忘却の彼方に押しやってしまわないようにすることなんです。自分の強みで周りを幸せにする=1人前になるまで、絶対に自分の強みと発揮することに自覚的であって欲しい。
 
 頑張れ!フレッシュマン!
 (By通りすがりの不惑のおっさん)

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