ルールにカウンターパンチを浴びせる❶[主張までの長い前提編]

 人生40年生きてると、ルール=縛らられる、意味不明、面倒というネガティブな反応が身体に染み付いちゃう。古くは、家庭の門限から始まり、校則、社会のルール、会社のルール。空気の様にルールは日常にあり、ともに生活せざるを得ない。
 
 人は1人では生きられない。だから大小様々なコミュニティ(学校、地域、会社なんでも)に属し、コミュニティーがある以上、コミュニティーにルールは既にある。僕もそーだけど、コミュニティーの立ち上げに寄与する経験は通常ないので、あるコミュニティーに迎え入れられた瞬間、どこの誰が決めたか知らないルールをありがたく押し付けられる訳です。
 
 な訳で、ルールに対する苦い経験が積み重なり、蓄積し、沈殿し、ルールに対しネガティブ反応が身体化するのだろう。
 
 更に言うと、日本は特にルールは与えられ、押し付けられ感が強いと思う。一方、欧米の人達はルールは自分達で作り、変えるものという意識があるのではないかなぁ。
 
 だって、欧米の人達は、市民革命・独立革命やって、市民が血を流し、苦しみを乗り越え、理想社会に向けたルールづくり(憲法)したから。
 
 だから自分たちで勝ち取り、自分たちで定めたルールを皆で守ろうぜ!は自然の成り行き。もちろん各人が果たす責任もその裏側にべっとり張り付いてるけど。そんな歴史を欧米の子孫は、共有し、継承してるからさ、国レベルではなく、地域や小さなコミュニティーでも自分たちでルールを決めて、ルールが機能しなくなると、対話を重ね、今にフィットするよう修正を重ねるお作法が染み付いているのだと思う。
 
 一方、日本はさ、市民が自分たちで勝ち取りルールを定めた物語が残念ながらない(ごめんさない、勝手な憶測。あれば教えてくださーい)。明治維新だってさ、明治の元勲達も市民じゃなくて、末端かも知れないけど、維新前の支配階級である武士にあることには違いなくて、市民はぶっそうな世の中だよな〜とかいいながら、ある日を境に牛肉食べて文明開化を味わって、そんでもって、明治の元勲や官僚が定めたルールに沿って生活することになるんだから。でもこれはしょうがないさ。時間をかけて皆で一緒にこれからの日本を考える大対話集会をやってたら、欧米列強に侵食されてまうに違いないからさ。
 
 さらに第2次世界大戦後の憲法だって、基本はアメリカから与えられたものだからさ(ごく少数の日本人が策定関与はしているとしてもさ)。
 
 で、結論としては、生まれた時から、そしてコミュニティーに参画する都度、受け身でルールを頂き、コミュニティーの一員として、ルールを作り、責任を自覚して生き、対話を重ねルールを吟味・修正するような主体性を発揮し難い環境を僕たちは生きてきたと言えるのではないかな。だから、ルールで息苦しくなると、ルールを与える主体に対して、文句を垂れ流す。曰く、行政が悪い、経営陣が悪い、先生達が悪いって(僕も散々文句言ってきました…汗)
 
 そうそう、ルールに対するネガティブな見方にカウンターパンチを食らわす僕の考えを述べたかったのだけど、主張の背景でここまで冗長でつまらない文章を書き散らしてもーた。僕の考えは、別途、記事を分けて書きます(続く)。
 
 蛇足だけど、ジョン・F・ケネディ元米国大統領のMessage、本当に痺れますよね。

そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。

また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。

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